学校のようす

野口英世 〜彼もまた、「エッセンシャル・ワーカー」

公開日
2020/05/20
更新日
2020/05/20

お知らせ

太田中学校の皆さんへ(第15回)

★1年生の皆さんがまだ入学前のことですが、2月20日の表彰集会の時に、私から新型コロナウイルスについて、現在の2、3年生の皆さんに話をしました。その話の中で私は、「細菌」と「ウイルス」の違いについて、細菌は細胞をもち栄養源があれば自分で増えていくが、ウイルスは細胞を持たないので、自分では増えないこと(人の体に入ったときは、人の細胞を借りて増えること)や、治療法として、細菌は抗生物質(こうせいぶっしつ=細菌の細胞などを攻撃することができる薬)などが効くが、ウイルスには効果がないこと、大きさは、細菌よりもウイルスの方がより小さいことなどを話しました。

★また、感染の仕方としては、「接触感染」や「飛沫感染」などがあること、そして、感染を防ぐ方法としては、手洗いうがい、咳エチケットの徹底、マスクの着用、免疫力を高めることなどが大切という説明もしました。あれから約3か月、感染を予防するための「新しい生活様式」という言葉ができるなんて、あの頃は予想もできませんでした。新型コロナウイルス、恐るべしです。

★さて、新型コロナウイルスのように、人から他の人へ「うつる」病気を、今では「感染症」と呼ぶのが一般的ですが、以前は、「伝染病」(でんせんびょう)と呼ぶ時期もありました。私が以前紹介した北里柴三郎もそうでしたが、彼より20年ほど後に生まれ、北里が開いた伝染病研究所で働いた「野口英世」(のぐちひでよ)も昔の呼び方で言えば「伝染病」と闘った医師でした。現在の1000円札の肖像が野口英世です。

★野口英世(子どもの頃の名前は清作・せいさく)は、1876年(明治9年)に福島県の猪苗代で生まれました。1歳半の時に家のいろりで左手に大やけどをした清作は、小学校では左手が不自由なことでいじめられ、辛い思いをします。その悔しさから、猛勉強をした清作は、学年で一番の成績をとるようになり、先生の代わりで他の生徒に勉強を教えることもありました。成績がよくても家が裕福でなかった清作は、小学校卒業後、家で母親を手伝い働こうと考えていました。

★ところが、優秀な清作をその上の学校に進学させてやりたいと考えた高等小学校の小林栄(さかえ)先生が学費を出してくださることになり、清作は13歳で高等小学校に入学します。清作はそこでも学年で一番になるほど勉強をしました。16歳になった清作は、先生や友達の助けももらい、左手の手術を受けます。そして、左手の指が少し動くようになったことに感謝し、医者をめざします。高等小学校を一番の成績で卒業した後、会津若松の医院で働きながら一生懸命勉強し、ドイツ語の医学書も読めるくらいになりました。

★20歳で東京に出た清作は、たいへんな努力をして医者になるための試験(2回受けて合格すると医者の資格がとれる)に21歳で合格します。その後、医学校で勉強を教えたり、伝染病研究所で働いたりしましたが、自分が望むような仕事ができませんでした。しかし、22歳で名前を清作から「英世」(英‥すぐれている、世‥世の中)に変えてからの彼は、その名のとおり、次第に世の中で、すぐれた活躍をするようになります。

★横浜の港で外国から入ってくる人や品物を調べて伝染病を防ぐ仕事をしている時に、ペスト患者を見付けた英世は、その後中国に派遣されペストで苦しむ多くの人々を助けます。24歳でアメリカに渡り、ペンシルベニア大学でヘビの毒について熱心に研究した英世は、27歳でデンマークに留学、翌年アメリカに戻って研究を続け、35歳で梅毒という病気のもとになる細菌スピロヘータの純粋培養(それだけを取り出して増やすこと)に成功し、その名を世界中に知られるようになりました。36歳(大正元年)でアメリカの女性と結婚してからも、英世は熱心に研究をし、次々と論文を発表したり、ヨーロッパ各国で講演をしたりしました。

★39歳で15年ぶりに日本に帰った英世は、2か月ほど母親やお世話になった小林先生と楽しい日々を過ごした後、アメリカに戻ります。その後42歳になった英世は、南アメリカで流行していた「黄熱病」(おうねつびょう・40度の熱が出て体の皮膚が黄色くなり、多くの人が亡くなる)の病原体を調べるためにエクアドルに行き、ワクチンを作り人々を救います(このことで、英世は勲章や名誉教授の称号を与えられたり、学校や道路に、「ヒデヨ・ノグチ小学校」「ノグチ通り」などの名前が付けられたりしました)。しかし、残念なことに、この年に英世の母親は、当時日本で大流行したスペイン風邪で亡くなってしまいました。

★悲しみを乗り越えた英世は、43歳以降、メキシコ、ペルー、ブラジルなどで次々に黄熱病と闘い、51歳(昭和2年)でアフリカのガーナに行き、黄熱病の研究に取り組み始めます。その直後に自身も黄熱病にかかってしまいますが、それでも英世は研究を続けます。しかし、ガーナに行って半年後、英世は黄熱病で51歳でこの世を去りました。英世のお墓はニューヨークにあるそうですが、そこには「野口英世、彼はそのすべてを科学にささげ、すべてを人々のために生き、すべての人のために死んだ」と書かれているそうです。(参考:集英社 学習漫画 世界の伝記「野口英世」)

★野口英世も、伝染病に苦しむ人たちのために命をかけて闘った「エッセンシャル・ワーカー」でした。英世の死後、黄熱病の正体は細菌よりも小さい「ウイルス」であることが発見されました。英世の生きていた時代にはなかった電子顕微鏡による発見でした。

★私たち太田中の教師も野口英世の困難に立ち向かう姿や努力する姿に学びながら、また、エッセンシャル・ワーカーの皆さんに感謝しながら、6月の学校再開後、この感染症から太田中の皆さんを守れるよう頑張っていきます。

太田中学校長  今井 東