市野倉
- 公開日
- 2021/05/02
- 更新日
- 2021/05/02
新田の歴史
市野倉は戦後に開発された新しい農村集落で、もとは旧陸軍の飛行場でした。旧新田町の地図を見ると、町の北部に、東西南北の方向にほぼ真っ直ぐ道路が走っている地域のなかで、一区画だけ道路が斜めにつけられている地区が見られます。碁盤の一部を長方形にくり抜いて、その長方形だけを少し回転させ、再び貼りつけたような格好になっている、ここが市野倉です。
地区の東端に自動車部品の工場などがあり、他は畑が広がる地域です。ヤマトイモや飼料用の作物の畑がほとんどで、土壌の質が稲作には適さないためか田んぼは見当たりません。酪農や食肉用の大規模な牛舎も目立ちます。地区全体が斜めに傾いているため、市野倉地区内の道路は南北に走っているように見えても実際は南東から北西に抜け、東西の道は北東から南西方向に向かっています。
生品のマツの森に1935(昭和10)年、陸軍の飛行場が建設されました。正式には陸軍熊谷飛行学校新田分教場といいました。『新田町誌』によれば、飛行場の建設予定地は「当時、生品村北東部で旧強戸村、藪塚本町に隣接する広範な平地林の一部」であり、4分の3が松林で、残りはナラなどの雑木林であったそうです。飛行場の建設により生品村北部山林の約6割が消えたそうです。飛行場の大きさは、東西約1850m、南北約1350mで、総面積は約249万平方メートルありました。工事は2年間にわたっておこなわれ、1938(昭和13)年3月に最初の練習機が飛びました。『新田町誌』には「同飛行場に関する資料は軍事機密のため、何一つ残されていない。」とあります。唯一の資料として町民の方の提供による練習機の写真が掲載されていますが、陸軍九五式一型乙練習機という名の飛行機で、オレンジ色の機体から「赤とんぼ」と呼ばれていたそうです。生品飛行場は終戦間近の1945(昭和20)年の7月と8月に空襲を受けています。『新田町誌』には「昭和20年7月、飛行場爆撃がおこなわれ、格納庫を含む諸施設が壊滅した。」とあります。
終戦後、飛行場跡地は農村集落として開拓されることになりました。これが現在の市野倉地区のもとになっています。1945(昭和20)年11月に閣議による大規模開拓事業実施方針によって、中島飛行機太田製作所内の離職者たちの失業対策として開拓の計画がもちあがりました。復員軍人や海外引揚者を中心に、地元や近隣の村々から入植者を募集し、各役場の推薦や抽選により入植者が決められたそうです。
飛行場がなぜこのような角度で建設されたかは詳しくは分かりませんが、おそらくは風向きの関係でないでしょうか。このあたりは、赤城おろしの空っ風が強く吹き荒れる場所です。赤城おろしは北西風で、飛行機は向かい風の方向に離着陸をするのが普通のため、生品飛行場の滑走路も南東から北西に向かって造られていたのでしょう。
今の市野倉地区が周辺の区画から傾いた状態にあるのは、以上のような理由によると思われます。太田市の飛行場跡地(現太田市朝日町および大泉町いずみ、富士重工の大泉工場など)も市野倉と同じような角度で傾いています。