命の尊さ 【本校6年児童作品から】
- 公開日
- 2020/08/26
- 更新日
- 2020/08/26
おしらせ
本校6年児童作品から 「命の尊さ」
いつも、何気なく僕たちは生きている。地球という奇跡の星で。だが、この何気なく生きるということが、とても幸せなことだと、僕は思う。僕の父親が、とある動物園に行ったときのこと。父は園内でこんな看板を見つけたという。
「←この先、世界で最も危険な生物」
気になったので、先へ行ってみると、一つの大きな鏡があった。その鏡には、父の姿が映し出されていた。
僕が初めてこの話を父から聞いたとき、頭の中で衝撃が走った。けれど、改めて考えてみるとそうかもしれない。人間は、戦争を起こして、数え切れない人々を皆殺しにしたり、漢方にするため動植物を乱獲、乱伐したりしている。人間ほど命の尊さがわからない生物はいないだろう。命の大切さは、自然の中をたくましく生きる動物たちが、誰よりも知っている。
一つ例を挙げるとしたら、アフリカのサバンナを生きるシマウマだ。ある日、シマウマは赤ちゃんを産んだ。だが、思いの外、赤ちゃんの元気がない。普通、シマウマなどの天敵の多いサバンナを生きる動物たちの赤ちゃんは、すぐに走れるようになる。だが、この子は走るどころか、直立することさえできていない。母親が心配して、長い首でなんとか立たせようとするが、子供は立つ気配すらない。すると、母親は産んだ我が子をかみ殺してしまった・・・!苦渋の決断であったが、このままずっとここにいたとしても、ハイエナなどの天敵に二頭とも殺されてしまう。なんともむごい話だが、これも母親から子への愛なのだ。シマウマの母親は、やはり罪悪感があったのか、何度も自ら殺した我が子の方を振り返りながら森へ去って行った。この話は聞いただけで、もちろんぼくが目撃したわけではないが、自然と心の中にその情景が浮かび上がってきた。
だが、3年前、動物の死を目の当たりにする事件が起きる。それは、母親の誕生日パーティでのこと。父が「サプライズ」と言って、大きな鳥かごを持ってきた。中にはかわいらしいウズラが二羽!母と僕はその姿に釘付けになった。次の日、鳥かごを外に置いて、えさと水を専用の器に入れた。だが、その日は習い事のサッカーがあったので、よくウズラを可愛がれなかった。正直、サッカーをしている間はずっと、「早く家に帰りたいな〜。」と思っていた。サッカーが終わると、僕は急いで車のドアを開け、ウズラがいる鳥かごへ一直線。だが、鳥かごの中にいたウズラは、昨日の可愛らしい姿ではなく、無残な姿だった。羽が、かごの中全体に飛び散り、血液も壁に付いている。ぼくは、その光景を見たとたん、混乱して言葉が出なかった。父は、このことを「野良猫にやられたのではないか」と推理した。確かに、僕の家の近くでは、野良猫がうろついているし、ケージの編み目は猫の手が入るほど大きい。僕は、父の話を聞きながら、とても悔やんだ。父さんが外にケージを出すと言ったとき、「猫にやられるかもしれないから、中に入れた方がいいんじゃない?」と言えばよかったのではないかと。悲しくて、悲しすぎて、涙が出なかった。
でも、これは動物の死で、まだ悲しみはそれほどではないのではないか。もし、死んだのがウズラではなく家族や友人であったら、もっと深い絶望の沼に落とされる。だが、それも同じ命だ。
ここで、一度最初に戻ってみよう。人間は、生物で最も危険な生き物だということだ。命は誰にも比類ない、かけがえのない存在。命がなければ、友達としゃべることも、ごちそうを食べることも、何もかも不可能。そんな素晴らしい命を、人類は簡単に絶ってしまう。特に、一番、残虐であるのが戦争である。戦争は、「平和理念破壊の象徴」であると、現に思う。幸福の意味を一度も分からずに命を落とした人も多いだろう。多くの国が平和になった今でも働き過ぎによる過労死、暴言暴力によるいじめでの自殺など、命を守るための問題は、数多くある。だが、医学が発展して、人が不死身になればよいのではないか、というわけではない。人は、死を目の当たりにして、命の尊さを知る。書いたように、僕自身がそうであった。もし僕が、不死身の体を手にすることが可能な治療を受けられるとしても、確実に断るであろう。死があってこそ、人間は命を大切にする気持ちが生まれるのだ。
(本人及び保護者の方の同意を得てご紹介。コロナ渦を生きる私たちに「人権尊重」は必須です。本日、配布の学校だよりでも掲載されています。)